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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

長詩「鮫」を読む

 おはようございます。

「鮫」は、昭和10年10月『文芸』に発表されました。1937年(昭和12年)に詩集「鮫」に入り刊行されました。240行6部の長い詩です。

 

 海のうはっつらで鮫が、

ごろりごろりと転がっている。

 

鮫は、動かない。

 

それに、ひとりでに位置がゆづって並んだり、

 ぶっちがひになったり、

又は、渺かなむかうへうすぼんやり

気球のやうに浮上ったり、

      (略)

 が、冒頭ですが、死骸を食って満腹している鮫の様子が描かれます。

死骸。

どっからそれを咥えてきたのだ。

水のうへの部落から、湾口から、

腐れた川口から、

流れも塞いで浮くペストの死骸。熱病の死骸。子供の死骸。

青い瓢箪腹の死骸。

………

    (略)

 と、死骸の姿が描かれます。おぞましい………ですが、詩人の見る眼は確かです。描写以外に現実はないし、現実を見るなら描写で伝えるしかない。現実はそうであろうと思わせるから、詩として成立しているのでないか。

 

鮫は、ごろりごろりとしながら、

人間の馳走をいくらでもまっている。

 

奴らの膚はぬるぬるで、青っくさく、

いやなにほひがツーンと頭に沁る。

 感覚的です。皮膚の感覚。

鮫。

あいつは刃だ。

刃の危なさだ。研ぎたてなのだ。

刃のぎらぎらしたこまかい苛立ちだ。

鮫。

あいつは心臓がなくて、この世のなかを横行している、無残な奴だ。

………………………。

 で、1部は終わります。観念の感覚化。危険を刃に喩えて。

 

────吾等は、基督教徒と香料を求めてここに至る。

ワ゛スコ・ダ・ガマの印度上陸のこの言葉は、

────吾等は、奴隷と掠奪品を求めてここに至る。

と、するもよし。

    (略)

と、2部で、鮫は突然、植民地主義の侵略の 軍艦の象徴だったことが明らかにされ、支配の比喩だったことがわかります。

 ………

奴らの腹は不消化な人間の死骸で満腹だのに、

ふてぶてしくも腹をかへし、細い眼を、片方つぶってこちらへ合図をする。

 

海水は、綺麗で、辛い。眼にしみこむ。

洗って、漂白されて、ひりひりしてゐる。

………

      (略)

 ようやく主体が登場します。

俺は、そんな波のなかを目眩めきながら、

黒い蝙蝠傘一本さしてふらついてゐる。

五年、七年、やがて、十年、

あはれや、指も一本一本喰切られ、からだのあっちこっちもなくなって、殆んど半分になってしまって、

………

         (略)

 なぜ、奴らは、俺を食はないのだ。

俺の心には毒があるのか。

俺の肉はまづいのか。腐ってゐるのか。

………

………

     (略)

 植民地を放浪している自分と、食われようとしている自分が対峙しています。

 

コークスのおこり火のうへに、

シンガポールが載っかってゐる。

ひび入った焼石、蹴爪の椰子。ヒンヅー・キリン族。馬来人。南洋産支那人。それら、人間のからだの焦げる棲愴な臭ひ。

合歓木の花の青空。

荷船。

 シンガポールの街の湾の様子が描写されます。

娼家。苦力。そして鮫が両腕を喰いとる。マラッカ海峡。血。女。傷口。

 

 その内容です。

どこから流れついたんだ、きまぐれな、………/………浮流水雷だ。/無数の螢のやうに煌めく、………/………知ってゐるのだ、/………

………貴様は、忠実な市民ぢゃない。それかといって、志士でもない。浮浪人。コジキ。インチキだ。食いつめものだ。

………/奴らは壁だ。なにもうけつけない「世間」という要塞なのだ。

………

波にゆられてどこかへ流されてゐた。

 

俺はいま、スンダのテロクベトン港外を、赤道下を、マカッサル湾を、リオ群島ビンタン・バダム水道を、青い苔錆浮いた水のなかを、くらい水のなかを、くらい海藻の林をゆきまよふ。

密林の喉へ匕首のように刺さってる川。黒水病。

バハンが、バタンハリが、ベラ河が、ニッパ椰子を………

………

     (略)

 5部の出だしです。作者に言霊が乗り移ったように、繰り出される語句がリズムとイメージを作っていきます。

 

 そして、植民地の収奪が描かれる。その後………

 

ボスチロ・チモール島から、ニューギネアまで、

海は全く、処女林のやうに深い。

金持のサロンへ入ったやうに俺は淋しいのだ。

 

奴らは一斉にいふ。

友情だ。平和だ。社会愛だ。

奴らはそして縦陣をつくる。それは法律だ。輿論だ。人間価値だ。

糞、又、そこで、俺達はバラバラになるんだ。

 

 

ああ。俺。死骸の死骸。ただ、逆意のなかに流転してゐる幼い魂。からだ。

常道をにくむ夢。結合へのうらぎり、情誼に叛く流離。俺は、この傷心の大地球を七度槌をもって破壊しても腹が癒えないのだ。

………

………

        (略)

 

熱にうなされたような言葉は、人への愛しさと、鮫への呪詛で終わります。

 

女は、俺の腕にまきついてゐる。

子供は、俺の首に縋ってゐる。

俺は、どこ迄も、まともから奴にぶつかるよりしかたがない。

………

………

          (略)

………

 

そのからだはにはところどころ青錆が浮いてゐる。

破れたブリキ煙突のやうに、

凹んだり、歪んだりして、

なかには、あちらこちらにボツボツと、

銃弾の穴があいてゐるものもある。

そして、新しいペンキがぷんぷん臭ってゐる。

鮫。

鮫。

鮫。

奴らを詛はう。奴らを破壊しよう。

さもなければ、奴らが俺たちを皆喰ふつもりだ。

 

 …………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 こうして読んでみると、たしかに古臭い時代の臭がするのですが、その長詩の構成力とイメージの華麗さには圧倒されます。

 詩は、やはりイメージなんだという思いを深くしました。一緒に旅をしているようだったのです。

  • 単純な構成
  • ズバッと比喩で表現する
  • 死体愛好的・変態的な志向
  • 全然、芸術的じゃない
  • しかし、イメージは美的

 

金子光晴を読もう」では、「詩の海洋」への脱構築、とノマド的身体という視点から分析されています。

 脱構築ポストモダンの概念。

 ノマド遊牧民ということですが………枠組みを言い換えることによって新しい見方を手に入れることができるのでしょう。テクストは常に読み替えられます。

 

 

 金子光晴の詩は、「詩人の言葉」そのもの、という気がしました。

 

 また、明日。