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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「金子光晴を読もう」を読んだ

 おはようございます。

 金子光晴について、思うことを書きます。

 この初老のぼくが若い時代の、詩の巨人だった金子光晴

●いまはもう古い時代の詩といえるかもしれない。

金子光晴の詩の感性は戦前のもの、と思っています。 

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 金子光晴の詩が読めるサイトを紹介しておきましょう。(サイトの主宰者の皆様、感謝しています)

金子光晴「洗面器」「ニッパ椰子の唄」「ねむれ巴里(略)」「どくろ杯(略)」………

「くらげの唄」「おっとせい」

「落下傘」

「寂しさの歌」

「反対」

「紋」

など………

 もっと見つかるかもしれないので、探して下さい。

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金子光晴を読もう

金子光晴を読もう

 

  という本を読んだのです。

 

 野村喜和夫の本は、以前にも「現代詩作マニュアル」というのを読んだことがあります。なんか………パラディグマとかサンタグマとか、言語学・文学理論のヤーコブソンを援用して、現代詩にあてはめるという手法で、素人の自分には充分理解できず、こういうふうに分析するんだな、と思ったのです。

 この本でもヤーコブソンの理論を持ってきて金子光晴の詩を分析しています。

 

 たぶん、いろんな学問や分野の枠を超えて応用される理論とか仮説とかで、それまでの見方を変えたり、新しい発見がなされるんだから、それはいいことなのでしょう。

 

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  本は─────

 金子光晴という詩人のいわれている有名な特質をあげます。

  • 世界放浪
  • 妻、森三千代との愛憎劇
  • 抵抗詩・反戦
  • 瘋癲老人

その混血性で、雑種性の、生き抜いた人生から、どのように詩が生まれて来たのか、を問うところから始まります。

 金子光晴経歴です。

 1628年から5年もの、西欧のアジアの植民地を巡り、ヨーロッパでは生活のためになんでもやったということで、詩や文学から離れていた………それで、日本の詩の潮流、モダニズムや四季派の影響を受けなかったのです。金子光晴はまったく独自の詩の世界にいた、それがよかったのでしょう。国という枠に囚われない反戦的で、人間を見るニヒルな視点を持つことが出来た。

 

 P59 「第2章 身体の地平へ」の冒頭

 小説としては不充足な、あるいは不安定な光晴の散文。とくにそれは、水や腐敗といったテーマを与えられると、小説的言説の秩序を無視するかのようにみずからの基底────リズム的うねりや物質的イメージへのもたれ────を持ち上げ、むきだしにします。そして、それがそのまま金子詩生成の基底になっているのではないか。 

 

 もともと金子はホイットマンや民衆詩派の影響を受け、詩を書き始めました。P71にこうあります。

 そして、金子詩のそうした散文的傾向は、ごく初期からしてそうなのです。その理由のひとつには、詩的出発にあたって、当時流行のいわゆる民衆詩派や、そのバックボーンであった19世紀アメリカの大詩人ホイットマンから少なからぬ影響を受けたということがあるでしょう。民衆詩派の詩というのは、口語自由詩の最初の飽和点のようなもので、行分け形式でありながら、みずからのその形式への無自覚を特徴とするようなところがありました。

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『現代詩読本・金子光晴』から秋山清がいっている部分────

ぼくが金子と詩の技術のこと、書くことで話したのは一度しかない。そこでどう詩の書き方を勉強してきたのかと聞くと、おれは最初はものごとを文字に写すこと、そういうことをやってみた。そういうことだけであとはなにもないんだ、と言う。若い出発の頃にそれをやったと言うんだ。縁の下とか火鉢の灰だとか、そういう題を出してそれ描写するというのを二、三百もやったというんだ。

 これは自伝「詩人」のなかにも、

僕は帰朝後、一年間、デッサンの仕事に熱中した。デッサンの仕事とは、つまり、写生詩で、身辺の物象、風景その他、目にふれるものを、一六行詩にまとめて、活写する練習である。

と、書かれているということです。

 

 散文性が詩の基本にある、ということが、わかります。

 

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  この第2章の4「海のうはっつら」で、金子の詩の散文性を、ロマーン・ヤーコブソンの、詩から散文へという二十世紀文学の特徴を、メタファーからメトニミー(換喩)へという修辞学の言い方で語ります。

 P84、長い引用になりますが、この本の肝なので………

 ここで少しレトリックのおさらいです。メタファーは隠喩もしくは暗喩と訳され、一般的に言えば類似性に基づく言葉の結合です。童話のタイトルで言えば「白雪姫」がそれにあたり、雪と姫とを白さという類似において結びつけたわけです。とはいえ、類似性というのはたぶんに恣意的主観的ですし、恣意的な類似のほうがインパクトが強いということもあって、西洋ではロマン主義以降、象徴主義シュルレアリスムの詩人たちによって大いに開発されてきました。万物照応。遠い事物同士の結合。それらの詩的コンセプトはみなメタファーを抜きにしては語れません。

 一方メトニミーは換喩と訳され、こちらは事物の隣接性に基づく言葉の結合です。たとえば「赤ずきんちゃん」というメトニミーにおいて、赤い頭巾は女の子の身体に隣接しています。そして、この単純なユニットを大規模に展開し、増殖させたものが、まさに小説の描写であるわけです。現実の事物の秩序の反映である隣接性は、したがって類似性ほど恣意的でありえません。飛躍はないのです。そのかわりに、細部から細部へと隣接性を積み重ねていった結果、エッシャーのだまし絵のように、そこに思いもよらないような反世界が結晶してしまっている、というようなことにもなります。

 

 金子光晴の詩における散文性をヤーコブソンを援用して分析しています。 

 そして第3章の「母性棄却を超えて」で、

  • 糞尿趣味
  • 死体愛好性
  • 皮膚感覚

を、アブジェクションという概念を用いて分析しています。

 でも、このブログでやりたいことは、どう詩作すればいいのか、という初歩的なところをわかりたいということなのでそこには踏み込みません。

 

 第4章 3「詩の海洋に向けて────長詩『鮫』読解」の項があります。惹かれたので読んでみたいと思います。

 では、明日。