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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「生きのびろ、ことば」から 2

〈挨拶〉「文体と儀礼感覚」林浩平

の文章のなかで三角みづ紀の名前が出てくるので、検索してみた。

 

その詩のパフォーマンスがたくさん YouTubeにUPされている。

 


三角みづ紀ユニット『Just Like a Boy』2011.10.6 - YouTube

 

 「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」の『はこいり』の批評は秀逸です。(ぼくのような素人が偉そうにいってすみません)

 

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 詩の言葉が、個人の内面世界に降りて行っている。

 そこにしかいま、詩の言葉が住めないのかもしれない。そんな気がします。

 個的で、わかりあえる人だけが読者として選ばれる───そんなふうになっている?

 

P80にはこう書かれている。詩篇「あまのがわ」から

わたしには/世界が足りないと/示された午後/錠剤が友達でした/お母さん、/それが毒だと/あなたは何故云えるのか

          (略)

  文体の挨拶機能と綿密に結びつくはずの修辞の意識や雄弁法など、三角にはいっさい不用である。ただただ自らの生を確認してくれる証人として、こうして出会った言葉が必要なだけなのだ。しかし、それが不思議に切迫した気分を高揚させ、リアルな何かを読者に差し付けてくる。

 

 たぶん世代で分けられる共通認識はあっても、細かく分けていくのがファッションとか意匠になっているから、思想とか認識とか共有するような堅いものは好まれず、それぞれが、好きなグループで好きなことをやって、楽しめているならいい、みたいなことになっていると思います。

 

 言葉の使い方も「共有」をめざしてない、んじゃないですか。

 

 それは不幸なことではなく、いつの時代にもあった、言葉を使うときへの批判みたいなものでは………

 いまは「個の世界」がやり玉にあげられているだけで、戦前は「発禁」で隠された言葉があったことだし………ぼくの頭では、正しいことをいっているかどうかわからないのですが。

 

 それにしても現代詩手帖とか、読まなきゃあな、と思わされることでした。現代詩が難解だと思った時から敬遠していたのです。

 そんなに先入観でごりごりになることはないんですよね。

 

 また、明日。