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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

モチーフはどこからでも

 先週、新川和江さんの詩を取り上げて書いたのですが───

「モチーフはどこからでも、浮かんでくる」ということを書きたいので、また、

 

詩が生まれるとき

詩が生まれるとき

 

 から、引用します。

    「象」

この脚つきの貨物箱(コンテナ)は

いつの時代に

誰から誰へ 発送されたものなのか

荷札も失せてしまった今は

一切が不明で いわば

どこからも申し出のない巨大な遺失物なのだった

          (一連)

 ………けれどこの詩の象は動物園の狭い檻の中で、長い鼻ばかりぶらりぶらりさせている。腑甲斐無い象である。その胴体を〈コンテナ〉と見立て、〈どこからも申し出のない巨大な遺失物〉と想像を飛躍させることで、詩は成っている。四人の清掃係が車座になって一服しながら、まことしやかに展開するここだけの話を、団扇のような二枚の耳は、聞いてしまうのである。

  この詩は象を見ていて、コンテナにしたら………というアイデアから始まっています。発端にそのイメージを持ってきたので、飼育係の話す言葉が長い二連になっているのですが、コンテナの中身を想像することが詩への飛躍になっているのです。三連は、この箱が象になって、話のオチをつける構成になっています。

 

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    「螢ランプ」

〈子供部屋〉と標識のある

壁のスイッチには螢ランプがついていて

押すと ランプは消え

その部屋に灯りがつく

     (一連) 

………私の身辺に起る 出来事など、とるに足らぬ退屈なもので、とるに足らぬ退屈なもので、ひと様に読んで貰おうとするのは一種の傲慢ではないか、という考えが私にはあった。私にとって詩を書く事は………至高なもの、深遠なもの、あこがれて止まないものに、少しでも近づこうとする行為であって、日常臭が芬芬の小さな屋根の下からは、出て行かねばならないものであった。………ふだん着の私、寝起きのままの素っぴんを、ひと様に見せてもいいではないか、と自分に許せるようになったのは、詩に対する緊張が弛んだせいか、あるいは年齢を重ねたことによるのかも知れない。………

 螢ランプ。あ、詩になる、と思った。こともなげに答えた電気屋さんが、詩人に見えた。そのような次第でこの詩は出来たのだが、まるで他人事のような描出だ。詩作者としてのフィルターを通さなければ、自分を素のままでは丸出しに出来ない慣胃が、性となっているのだろう。

  長い引用をしてしまいました。

 詩を、日常的なことをモチーフにして書いてもいいのだ、ということがよくわかる文章だったからです。むしろ、日常にこそ、詩があるべきだと思います。構えて書いても、読者がどう受け取るか………改まったところからは、ほんとうに共感する言葉は出てこない気がします。

 

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    「詩作」

はじめに混沌(どろどろ)があった

それから光がきた

古い書物は世のはじまりをそう記している

光がくるまで

どれほどの闇が必要であったか

………

………

   (略)

 

………ある時期、十文字法という手摺を詩作の階段に取り付け、それにつかまって登り降りすることを思いついた。………ヨコの一を空間軸に、タテの|を時間軸に見立て、その十文字を出来るだけ大きく作品の中に描くこと。例えば、目の前にある一本の木を題材にする場合、その木と最も遠く隔った土地に立つ同種の木に思いを走らせる。その木の梢が届きたいと願っているであろう空の高みを、土中に張り拡がって行きつつあるであろう根についても。そうした時空を作中に大きく取り込まない限り、その作品は詩ではなく、僅かな文字で綴った小学生の作文に過ぎないのではないか。

  この詩では、聖書が引用されています。詩が書きはじめられることが、世の光のはじまりに喩えられています。その後、詩人の描く、イメージする言葉が連なっています。こうして詩は始まり、続き、イメージがはじけ、最初のどろどろにもどる、そういう構成になっています。それが、作者の詩作について描いたことです。

 十文字法───限りなく大きく。

 

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   「春告魚」

そんなにも目を血走らせてまで

告げようとした春というのは

どんな春なのだろう

うろこを無残に剥がしてまで

ひっぱってこようとした

北の海というのは………

     (一連) 

〈春告魚〉とは、鰊のこと。三、四月頃、産卵のために北海道の近海に寄ってくるので、この名がある。ふつうは加工されて身欠き鰊となるが、北国の海辺の町の居酒屋などで、とれたてのを塩焼きにして出してくれる鰊は、なかなかの美味である。………

 魚の鮮度の見分け方は、まずその目が青く澄んでいることであるが、長旅に疲れて充血し、うろこもすっかり剥がれてしまっていて、見るも痛ましい。そんな鰊にどんな思い入れをしたのか、今では思い出せないが、〈腐りやすいなま身〉を持っていることを、相憐れむ、といった心情であったことは確かである。

  魚屋さんの店先でちょっと見ただけの鰊。その姿に、旅の苦労を思い、自分の姿に重ねあわせ………想像力が膨らみます。

 モチーフのイメージが強烈で、詩ができることもあるだろうし、モチーフから入って、想像を膨らませ、詩ができることもあるだろうと思います。

 詩の生命は、いずれにしてもイメージなんだろうと思うのです。

 

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  「教えてください どこにいればいいのか」

教えてください どこにいればいいのか

ときどきぼくは

不安でたまらなくなる

腰をうかして立ちあがり

いまいる場所を

うろうろと回ってみずにはいられない

      (一連)

  この詩は少年少女詩集『明日のりんご』(1973)に収めてあるが、つぎの少年少女詩集『野のまつり』(1978)のあとがきで、他者になり代って書くことの多い詩作の姿勢について、私はこう述べている。

「───年齢を超え、性別を超えるには、べつに、むずかしい魔法はいらないのだった。そのものになりきってしまうこと。つまり、そのものを生きること。こうして私は、ある日一三歳の少年を生きる。またある日、馬を生きる。薔薇を生きる。歩道橋を、張られた帆布、寺院を、ポプラを、水道の蛇口を生きる。───」 

  詩人は、注文を受けて書いたようです。それでも、少年になりきっています。というより、少年になりかわって発語している。

 自分と違う視線で世界を見ること。違う思いで生きる現実を見ること。それを教えられました。

 

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  この本では、ほんとうに多くの、モチーフの見つけ方、そのヒントが書かれてあります。詩のとっかかりに悩んでいる人(ぼくですが………)は、必見すべし、と思えます。

  まだまだ引用したかったのですが、著作権の問題もあるので、このへんで。ほとんど自分の意見を書いていないので………

 

 また、明日。