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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

荒川洋治が解析した、石原吉郎の詩

Ⅲ 詩を生きる───「空隙」の項まとめ

 ここで荒川洋治は、石原吉郎について書いています。石原吉郎が好きなので、まとめました。

    「馬と暴動」(『サンチョ・パンサの帰郷』から)

われらのうちを

二頭の馬がはしるとき

二頭の間隙を

一頭の馬がはしる

われらが暴動におもむくとき

………

     ――(略)――

  有名な詩です。

 二つのものがあり、その二つのものの間に、あるものがあり、それが何かをするという、骨組としてはそういう内容の詩だが、これを読んで頭が痛くなる人も多いかもしれない。だが石原吉郎の作品のなかではあまりむずかしくない部類の詩なのである。

 意味がわかるかどうかは別にして、いっていることはなんとなくわかるように思われるが、このように感じ、このように判断するといわれても一般の読者には納得しがたいものが残る。論理は透明だが、石原吉郎の個人的な感覚が一方的に展開するのだから。

     「フェルナンデス」

フェルナンデスと

呼ぶのはただしい

寺院の壁の しずかな

……………

………(略

しずかなくぼみは

いまもそう呼ばれる

………

………(略

私はそこに立ったのだ

 ごめんなさい、ズタズタにしてしまいました。

いい詩だ、やさしい詩だ。ひと文字ひと文字ごとに、あたたかいものに包まれる感じがする。さみしいものにおおわれる感じもする。そんな、こちら側にもたらされたいくつかの感情がかさなりあうとき、この詩はより輝きをますように思われる。 

 

………作者が、どうにもならないところ、人には説明のつかないことを終始かかえていか、そこから噴き出た。そんなふうに思える。日本語としての秩序が欠けているようにも思える。………「私」が「私」であることはわかるが、何かを飛ばして、いきなり「私」が出るような感じだ。

 

 引用ばかりで………ごめんなさい。

  石原吉郎の言葉はシベリア抑留体験から出てきた言葉なので、過酷なものをくぐって発せられていると思うのです。その前に立つと、どうしていいかわからなくなる、どう読めばいいかわからない、そう思わせるのです。

 

 詩は、自由なものである。それが日本語としてどう崩れていようと、乱れたものであろうと、無様であろうと、詩の世界では、ゆるされる。むしろあわれなもの、さびしいもの、どこにも行き場のないようなものにこそなさけをかける。そしてそれらを擁護する。抱擁する。それが詩のもつ、あたたかみである。まわりにあるすべてのものが信じられなくなったとき、石原吉郎には、詩のことばが見えた。

 

………詩のことばは、個人の思いを、個人のことばで伝えることを応援し、支持する。その人の感じること、思うこと、体験したこと。それがどんなにわかりにくいことばで表されていても、詩は、それでいい、そのままでいいと、その人にささやくのだ。石原吉郎の詩は、そうした詩のことばの「思想」によって支えられ、生きつづけることができた。

  荒川洋治はいいことをいうなあと、引用をしながら、思います。

 わざと難解にした、見せかけの衣装をまとった(こんなことをいっていいかわかりませんが)現代詩が多い中で、石原吉郎という詩人の本質をわかっていると思います。

 石原吉郎の詩は難解にしたのではないのです。シベリア抑留体験そのものが、捉えきれない、難解なものなのです。それで、詩に、そう書くしかない。

 体験そのものは、個人的にしかわからないものですが、言葉で共有できる………

 と、こう書いていいのでしょうか? (上滑りしていないか)

 石原吉郎の詩を読んでいると、真面目に人生に向き合わなきゃという、反省もこめた心境になります。

 あるときは、言葉の優しさに、ほっとします。

 

 好きなので、荒川洋治さんが書いた言葉を、長々と引用してしまいました。

 

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 では、また、明日。