日の記し   ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。・☆彡 ・☆

底辺で生きてきて67歳になりました。そこから見える風景や、読んだ本のまとめや、検索してわかったことなどを書きます。生きることは辛いですが、何をしても生きていけると思うのです。仏教を生きる支えにしているので、そのことも書きたいです。リンクを貼らせていただくサイトの方々に感謝しています。

詩の起承転結───「波」(荒川洋治)

Ⅲ 詩を生きる───「波」の項まとめ

詩は、基本的に、次のようなかたちをしている。

 こんなことがある     A

 そして、こんなこともある B

 あんなこともある!    C

 そんな ことなのか    D

 

いわゆる起承転結である。

 

  いきなりDから始めるものもある。

 

  「夜の羊達」  井坂洋子

さよなら とさけんだ時は     2A

君はもう眠るように見知らぬ時へ  2B

腕いっぱいの羊達と        2B

よりそいささめきながら      2C

歩いていって           2C

私は昨日の土地へ         2D

みすてられているのだ       2D

"さよなら”            3A

ともう一回さけんで        3A

         ――(略)――

  この詩の「さよなら」の言葉が始まる前に、すでに何か起こっているのだという。

 だから、

………………  1A

………………  1B

………………  1C

………………  1D

が、あって、この「さよなら」が始まるのだという。

 そういうことなのか。

 このように、詩は第一行が記される以前に、すでに詩をもっている。そしてその時には、もうすでに波がある。その波は起承転結またはそのようにはっきりしたかたちをもたないまでもある秩序をもつ。そこでつくられる波が、見える場所に現れる。そこから現実の第一行がはじまるのだ。

 

 こういう指摘は新鮮に思います。

 

 前から、小説などのワンシーンは、起承転結で描かれているのじゃないかと思っていました。

  1. 男がドアを開けて入ってくる。会社から帰ってきたのだ。
  2. スイッチを押して部屋の灯りをつける。
  3. 隣の部屋で電話のベルがなる。
  4. 男が、隣の部屋に歩く。

      (今時、みんな携帯を持っているので、こんなシーンは古いですが (^_^;) )

  小説のシーンは、起承転結でできているな、と思っていました。映画のシーンも同じです。何かが起こって、それが描かれ、なんか動きがあって、次のシーンへ繫いでいく。

 人の行動はなんかのきっかけで起こり、経過があり、終わって、次の行為にゆく。

 

 これはもちろん、エッセイなどの文章の流れとしても、起承転結になるのが自然なんだと思います。人の思考の流れも、起承転結のかたまりですから。

 

……終わったところから書くと余分な力が入らないので気分が軽くなる。文字にならなかったことがらや消えたことば、捨てたことばにも、支えられるようにして詩を書くことができる。すぐれた詩を書きつづける人はこのような波をもつ。それぞれちがう、その人の波をもつ。ときに応じて波形を変えたりもする。

  詩を書く時に、どこから始めるか、を考えることは、大事だとわかりました。

 

 また、明日。