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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「彼岸の詩学」を読む 3

【戦後詩的〈喩〉の意味】

一 戦後詩的〈喩〉の意味

  • 「荒地」の目標は、「詩の全体性の回復」だった。木原孝一は、言った。

個にして全体なるもの、全体のうちなる部分であり、部分にうつされた全体であるもの、詩はそうした全体をとおして、われわれの心の内部と外部のものとをつなぐのである。

  • 肉体と精神の分離、性と愛の分離、機械文明への懐疑から、根源的な意味の回復を目指すこと。
  • 形而上学的〈喩〉へ向かう。
  • それは戦前の形骸化したモダニズムから、意味を回復すること。
  • 「荒地」の弱点は、近代文明の破滅として硬直化したこと。
  • 救済は描かれなかったので、ニヒリズムの提示に終わった。田村隆一の「四千の日と夜」「言葉のない世界」に表われている。
  • 高度経済成長期が到来し、「荒地」の詩人たちは、内面的な危機を、ニヒリズムとして表現するしかなかった。
  • なぜ「荒地」の「全体性の回復」が次の世代に継承されなかったのか。60年代以降、言語的ラジカリズム、遠心的ダイナミズム、饒舌体、詩的完成の拒否、風俗イメージに向かったのか。 …………………………………………………………………………
  • 「もはや戦後ではない」という戦後意識の解体の上に、「現代は荒地である」という「荒地」の終末論的認識も退化してしまった。
  • 思潮社の商業主義的な戦後詩のプログラム化(販売計画)。権威的な詩の評価の仕方。
  • 荒川洋治の言葉━━━

戦後32年、私たちには何がもたらされただろうか。戦後のはじめ方でもない。荒地のさまよい方でもない。まして安保以後のくらし方でもない。手渡されたのは、戦後詩の技術だけである。

  •  詩を技術のなかに固定してしまう。

 著者はいう━━━

形而上学的な〈喩〉の特徴とは、〈全体〉に対して〈個〉という概念の提出があり、そこには個人に対して神、国家、歴史、あるいは生と死、ということが具体的に対象化されてきます。そのように〈個〉と〈全体〉はたえず緊張し合い、個々における作品の中で内在化を果たしていくわけです。

……技法の問題としての可変的な〈喩〉の存在があり、そして一方で普遍的な形而上学的な〈喩〉による生き方の問題と、この二つが融和されたところに位置していくものではないでしょうか。

……言葉の領域によって対象化しえるものと、言葉をもっても到達不能な対象があることを知るべきであります。それが踏まえられれば、詩人が遊戯的感覚で珍奇な言語の結合にのみ情熱を燃やす、ということも少しは薄れてくるのではないでしょうか。

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 ここで著者が 「形而上学的な〈喩〉の特徴」として定義していることは、言葉として正当だとしても、具体性を欠いているように思えてならない。個と全体の緊張関係や、技術的〈喩〉と言葉で表せない〈喩〉があるというのも、すでに常識的な定義だと思う。言葉で書くと、こう書くしかないとは思うけれど。「詩の全体性の回復」をなす「形而上学的な〈喩〉」がある、というテーマが抽象的過ぎるのかもしれない。

 

二 戦後詩的〈喩〉は継承されたか

  • 生きるという事が実感できない主体の喪失
  • ポスト・モダン━━━脱構築、脱中心、断片的……
  • ボードリヤールはいう━━━

つまりある現実ともうひとつの現実、ある実在する状態ともうひとつの実在する状態とを媒介する力のある機関はもう存在しないのだ。それは内容にも、形式にも存在しない。まさしくこれが厳密な意味で内破というものだ。

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 思うんだけれど、ポスト・モダンって、哲学的な流行じゃなかったのかと。

 いま、世界は移民問題ナショナリズムが台頭してきているし、侵略を国是としている国が暴力をふるい、それを止められない。抑圧的な政治システムが相変わらず機能している。

 第2次世界対戦の戦後は形を変えた支配の段階に入っているような気がする。経済的支配(TPPなど)と国というシステムを利用する支配(移民、テロ防衛など)へ。いや、自分の生半可な考えを披露することはないのですが……

 

三 〈喩〉の解体がもたらしたもの

  • 虚構の、詩という空間に意味が解体された言葉だけが浮遊する。
  • 吉本隆明はそれを「修辞的現在」と表現した。そこではただ修辞的なこだわりだけが詩人を区別する。
  • それは主体性をなくした、風俗的なものになっている。

四 80年代詩 批評の不在と〈喩〉

  • 個々の感性で、恣意的に言葉が選ばれ、意味が理解できない時、それはメディアを通じて散りばめられた情報の断片にしか過ぎない。
  • 他者を発見できない。共通した世界観を分かち合うことが出来ない。
  • 荒川洋治「水駅」━━━虚構での感性。修辞的飛躍。それを新しいと信じてしまった。
  • ポスト・モダン現象は、個性的ではなく、均一化。
  • ほんとうに人間の主体は失われたのか。メディアに依存していいのか。

五 〈喩〉は詩に意味を回復させられるか

  • ボードリヤールは現代を記号化の体系と考える。そこでは何がオリジナルで何がコピーか不明であるとしている。

現在の高度消費社会にはその操作を司る人間的〈主体〉が決して存在せず、社会それ自身だけが〈システム=機械〉の自動運動の〈主体〉であるというイメージにほかならない。

  • ボードリヤールのこの論拠は、現代詩に現実を捨てさせる理由を与える。
  • 詩の評価が個々の作品における修辞の差異の強さによって決められる。
  • 技法のみで〈喩〉を語っていいのだろうか。
  • 戦後詩の形而上学的〈喩〉の目標は戦後体験の思想化であり、いかに生きるかであったはず。それは簡単に解体されるものではないはず。
  • 発想の転換が必要。戦後詩の総体から、形而上学的〈喩〉が検証される方法を見出すべきだろう。

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 これは1991年に書かれた文章だそうです。あの頃、ポスト・モダンということが盛んにいわれ、バブル経済で浮かれていた人々が、はじける怖さを感じていた時代でした。

 詩の技法を、時代とか社会の現象に関連して解読しようというのは、むしろ基本ですが、戦後詩的〈喩〉と名付けられるものが、実体としてあったかは、個々の詩を読み解くことに任せるべきでしょう。

 詩論としてあったとしてもそれが継承されないなら、詩論そのものが具体性を欠くものでなかったか、検証されるべきだと思います。(偉そうにいって、すみません)

  この本によって、戦後詩がたどった流れがわかったので、すごく勉強になりました。

 ただ、もう少し、難しい表現じゃなく、概念的な言葉を使って論考するのでなしに、わかりやすく書いてくれたら……もっとよかったのに、と思います。

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 この後、他の章の印象に残ったところを取り上げていこうと予定していたのですが……それぞれの論考を読んで考えさせられはしたのですが……ぼくの問題意識、「共感してもらえる詩を書くための方法とヒントを探る」に触れてくるものはなかったので、これでこの本を読むのを終わりにします。

 図書館から借りてきて、読まなければならない本がたくさんありますので、また、そこから学んだことを書いていきます。

 では、また明日。