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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「彼岸の詩学」を読む 1

 

「彼岸」の詩学―戦後詩的「喩」の意味

「彼岸」の詩学―戦後詩的「喩」の意味

 

 という本を読みます。

 戦後詩の始まりに「荒地」派が果たした役割は重要で、詩の技法としての隠喩の効果は計り知れない。(それは、こうして学んでわかったこと、後から知ったことなんですが……)

 ぼくは1966年にギンズバーグの詩に出会って、個人的に、ずっとその詩に、励まされてきました。それで詩に興味をもったのです。

 70年代には現代詩がもてはやされていて、言葉で、なんか、閉塞状況を切り拓けるじゃないか、この感性で生きることに意味が加えられるだろう、みたいな感じ、雰囲気があったように思うのです。

 80年にはシラケてしまった……けっきょく、なにもなかったんだ、という空虚な気持ちになって……時代がそうしたんだろうけれど。

 

 そのころのこと━━現代詩が、あまりに、隠喩を多用して、難解になって、読むのが嫌になったのです。なにも伝わってこない、と思ったから。詩が、思潮社を中心にした業界(詩壇のような)専用の商品みたいなものになっていて、そこから薄汚い権威主義的なものが見えたように思ったのです。

 

 それから長い間、詩集を手にすることもなかったし、読みたいとも思えなかった。

 それが一読者の、現代詩に対する感想です。

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 なぜ、この本を図書館から借りてきたのかというと━━━隠喩を多用して難解になれば、読む人が少なくなるだろうとわかるだろうに、なぜ、「難解な詩」に向かって突き進んでしまったのか、その意味が知りたいからです。

 この本には解答が書かれていると思ったのです。

 

 著者は詩人で、「詩学」とか他の同人誌に、この本の基になる文章を書いたということです。あとがきには、「詩を書くもの誰もが経験し、日頃から考えているようなことを問題提起した」と書かれています。

 1部

  • 戦後詩の「喩」という技法について
  • 戦後詩的喩は死んだといわれているが━━━外的事象と内面を媒介する喩の技法は有効

 2部

  • 詩人論

      と、なっています。

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 【戦後芸術詩の系譜━━「列島」の芸術的方法】

  • 戦後、多くの詩誌が創刊されたが、戦争体験をどう詩的表現に結実するかが問われた。
  • 戦前の「詩と詩論」━━━芸術至上主義の言語遊戯の現実意識の希薄さ
  •    プロレタリア詩━━━芸術性を軽視した政治的な偏向
  • これらの弱点を乗り越えようと創刊されたのが「列島」
  • 同人は━━出海渓也、関根弘、井手則雄、福田律郎、木島始
  • 政治的前衛であり、芸術的前衛であること
  • 「列島」の芸術的方法はシュールレアリスムを用いるものだったが、関根弘は「詩と詩論」を批判した。

……西脇順三郎をはじめとする春山行夫上田敏雄、北園克衛、滝口修造らの「詩と詩論」グループの主張は、関根の指摘によれば、いかに主知的に対象を社会的事象から独立させるかということであり、そこにはシュールレアリストとしての前提となるべき、人間解放のモチーフがどこにも描かれていない。……西脇は「超現実主義詩論」で……

 これは芸術が社会との接点を放棄し、芸術至上主義を暗黙のうちに合法化していくものであった。言語を媒介として人間の想像力を解放すること、そして合理主義への反発ということでは、「列島」と「詩と詩論」グループは同じ主張を持つ。しかし「列島」の方向が徹底して内的リアリズムによって支えられていたという点において両者は全く違う。「列島」同人の瀬木慎一は金子光晴の「鮫」に高い評価を与えるが、その要因として、「強烈な内的リアリティに支えられた抽象、操作が微妙な比喩や象徴を展開している」とし、その比喩を「対立する外部と内部を分析と総合の関係でとらえる方法」と見ている。……そして小野十三郎の「風景詩抄」「大海辺」の詩法を評価の基準においていたと思われる。リアリズムについても、「外部が内部の中に触発するさまざまな異様な表現をふんだんにつかみとるべき」(瀬木)であるとし、「木ならば木、パンならパンそのものとしてららえられるのは、それと他の物との関係、現実におけるそれの総体的関係が充分明らかにされる」という分析がある。

[ここでの瀬木の小野十三郎 の詩への分析は、すこし韜晦過ぎないか……物自体、直接的に物そのものをずばり描くということをいっていると思うんだけれど……]

 

 長々と引用したのは━━━こういうふうに、過去の詩論への反省、新しい詩論の、方法論の構築、ということで戦後の詩への取り組みが始まった、ということを知りたかったからです。

 

 

  •  もともと芸術性の希薄な「荒地」
  • 「列島」のように、政治と芸術の統一的止揚という前衛スタイルは、商業ジャーナリズムが掲載する時、その扱いに困る。内実が問われる。
  • その結果、60年代の商業ジャーナリズムは、社会意識を排除することを選択し、新たな主知主義を受け入れた。
  • それで、詩は、過激な言語実験━━━芸術的な延命を課題にするようになった。
  • 「列島」が果たした役割は、かってのプロレタリア詩のような素朴なモチーフ主義を否定したこと。
  • モチーフ主義は、70年代以降の荒川洋治平出隆、80年代の伊藤比呂美らの女性詩や、戦前のモダニズム詩法に先祖返りすることをポスト・モダンと呼んだ「麒麟」グループの主知主義のほうに残っている。

 

 著者は「社会性を前面に押し出し、しっかりした問題意識に支えられたものより、そういう言語遊戯的傾向のものが脚光を浴びているのは、意外な現象である」といっているのですが━━━

 ぼくには、「社会性を前面に……」というのは理念先行のような気がします。理念や思想が正しいからといって、正しい行動にはならないと思うのです。詩論が正しいからといって、いい詩がかけるとは限らないように。

 言語遊戯もあってもいいと思うし、趣味的な詩の世界もあっていい。

 相手を批判することで、自分の価値が上がるわけじゃないと思うので、言語遊戯の現代詩のどこが、空疎なのか、具体的な分析が必要です。

 

 社会性と芸術性が統一止揚された詩を、大衆が受け入れなければならないわけでもないでしょう。そんなことであれば、詩人は詩をよむ大衆より見識のあるリーダー的立場に立っていることになる。

 3は、なぜ「列島」の芸術性が現実の詩のジャーナリズムの業界で受け入れられなかったのか、検証するみたいなので、続けて読んでいきます。長くなったので、また、9日に。