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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

小野十三郎の「風景」の意味

 小野十三郎の詩における「風景」の意味を知りたい、と思って「小野十三郎論―風景にうたは鳴るか 」「小野十三郎を読む」の2冊を読んだ。

 わかったことは、「葦の地方(四)」が入っている第四詩集「風景詩抄」が出版されたのは1943年で、戦時下で敗北を重ねていたにも関わらず大政翼賛的な戦争賛美の詩しか許されない雰囲気だったこと。

 後に「詩論220」(1949年)に書かれる───

短歌的リリシズムの強烈さに想到せよ。それはファッシズムの精神温床となったほど強烈であり、いまはよく『天皇制』を護持し得るほどに強大である」の、短歌的抒情の否定を、戦争に対する抵抗として意識していたと思われるのです。

 それまでの抒情を否定し、即物的な風景に解体した自意識に置き換えるという詩法をとったということです。

   

   葦の地方(四)

いつか

地平には

ナトリユームの光源のやうな

美しい真黄な太陽が照る、

草木の影は黒く

何百年か何千年かの間

絶えて来ない

小鳥の群が

再びやつてくる

       ――(部分)――

 

 体制否定の思想が、短歌的抒情の否定を導いた、ということ。

 たしかに抒情とか情緒とかが、詩歌に限らず、音楽や踊りや絵画や、いわゆる芸術といわれるもの、スポーツまでも、その時の政治体制に利用されることは、よくあることです。むしろ、密接に体制の階級性と結びついているかもしれません。

 それを考えると、詩の自立というのは、「正直に、描きたいことだけを書く」「描きたい以外のものは、時代に要請されても書かない」ということでしか保証されない気がします。

 ただ、人間が、観念や思想が先行する存在だとしても、自分の思想で他を否定するのは自分を守るための弱さを含んでいると思うのです。思想を信用するのは、右翼も左翼も、革命派も体制護持派も同じです。そうして狭い、自分たち選ばれた人間だけで決定して、相変わらず体制というシステムを維持していくことになるからです。

 そんなに、政治思想というのは、信用できるものでしょうか? ぼくは信用していません。

 

  小野十三郎の乾いた抒情は好きです。「小野十三郎 詩 風景 意味」で検索すると出てくるサイトのほうが、ずっとずっと詳しく、教えられます。

 

 特に、「小野十三郎と『抵抗の科学』━━人民戦線/風景/短歌批判との関連において━━(2)」には感激しました。

  ただ、小野十三郎の「葦の地方」の風景が、国家権力の目に見える矛盾と衰退の象徴として描かれていたとしても、「時代の制約を受けているなあ」という感想はもちます。あの時代、戦争中だから意味があった。

 いま、なんの先入観もなく読んでみて、葦の地方に反戦意識を読み取ることは困難でしょう。深読みしなければ。

 詩は時代に制約されます。また、それでいいともいえます。それが同時代性なのですから。

 

 詩の入門書によく書かれている、「普遍性」を考えてしまいます。普遍性を持った詩とはどんなんだろうかと。それを作りたいし、見出したい。