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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「詩の作り方」を読む 7

「詩をよんで考える」の章 まとめ

【イメージの転化】

 蔵原伸二郎の「めぎつね」という詩を実例にあげています。

野狐の背中に

雪がふると

狐は青いかげになるのだ 

        ――(略)――

 そこでは、狐が吹雪の夜に村に下りてきて、鶏小屋を襲い、山に帰る様子が描かれているのですが───そのイメージはメタファを駆使して描かれています。

「私たちはただこの詩に即して鮮明なイメージの世界にはいればそれでよいのです。イメージと申しましたが、そこには豊かな色彩があり、音があり、匂いがあり、それはただ読者の視覚に訴えるだけでなく、聴覚にも、嗅覚にも訴えます。読者はその五感でこの詩を受けとめると言ってもいいでしょう。

 ここには、光と影、静と動、現実と夢幻との対比と照応があります。ことばはその背後にひろがる世界を暗示しています。ことばに書かれているのは、世界のごく一部です。部分です。しかし、ここにことばで示されているあざやかなイメージの世界は、ひとつのイメージでありながら、同時にごく自然にメタフォアとして作用します。メタフォアとして働くことによって、部分は、読者に、世界を、自然を、存在を、人間を、ひとつの全体を暗示するものとなります。単に鶏小屋を襲う狐の物語だけではなくなります。世界とか自然とか存在とか言うのがおおげさに聞こえるとしたら、生き物でもいいのです。生き物というもののひとつの宿命のようなものがそこにあれば、読者はやはり人間という生き物のことを、ごく自然に思わないわけにはゆきません」

  長々と引用したのは、あまりにもみごとな分析だったからです。

 詩というものの本質を表していると思います。

 

 蔵原伸二郎はこういう人です。

 検索結果もどうぞ。

 

 次に「野狐」も紹介されています。

 

 鳥見迅彦詩集「なだれみち」から───

    岩のテラス

ここよりほかに場所がない。

だからここがいちばんよい場所なのだ。

星と風のなかの

岩のテラス。

          ――(略)――

 「第三連の第三行に『存在のかなしいあたたかさ』とありますが、これは詩の初心者に、メタフォアとはこういうものです、と説明するのにもってこいの例みたいな気もします。しかし、何とせつなく、じかに肌身に感じられることでしょう」 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 詩集「けものみち」のあとがきにはこうあるそうです。

けものみち」とは深い山の中をゆききするけものたちのひそかな路跡のことであるが、ここでは人間の行路を暗示する一つの隠喩として籍りた。

「ここに隠喩(メタフォア)ということばが出てきます。通常は部分的な表現についてメタフォアということばは使われています。たとえば、『存在のかなしいあたたかさ』といったものです。『恐怖の そよかぜ』でもいいでしょう。しかし、その作用という意味では、『けものみち』が人間の行路を暗示するのも同じことです。いや、ひとつの詩のイメージが単なるイメージでありながら、同時に自然や人間の全体像を暗示せずにはおかないところに、詩の特質があると言うことができます」  

 ここでぼくは、メタファというものが何かを学びました。たんにことばの効果的な使い方でない、もっと大きな意味を持つのだ、ということです。

 

【変化する視点】

 「『めぎつね』でも『岩のテラス』でも、また『かなしみ』でも、その詩を通じて作者は同じひとつの場所にいます。その場所は同じです。でも、いつも作者は不動とは限りません。カメラを固定していることもあれば、カメラが移動することもあります。映像そのものは変化の激しいものもありますが、たいていの詩はカメラを固定して、かかれています。これに対して、カメラがたえず移動するように、視点の変化する詩があります」 

黒田三郎は、宮沢賢治西脇順三郎をあげます。

 (宮沢賢治は自分の詩を「心象スケッチ」といいました。歩きながら考える、スケッチする、そういう詩だったと、思います)

● 長谷川龍生を取り上げています。

   理髪店にて

しだいに

潜ってたら

巡艦鳥海の巨体は

青みどろに揺れる藻に包まれ

どうと横になっていた。

        ――(略)―― 

 ●この詩では、前半は潜水夫の視点で描かれているが、後半は理髪店での見られた対象物として描写されるものになっています。視点の変化が、「見る者→見られる者」となっている現在性を表すものになっています。

 また長谷川龍生の若い頃の作品、「囲む」でも同じ、視点の変化があります。

不意に

日がくらくなったかと思うと

ぐしゃり。

頑丈な靴底が頭を踏みつぶした。    

          ――(略)―― 

 ここでも、被害者の視点→第三者の視点、と描かれ方が変化しています。

 

●もはや、固定した立場でものを考えることも、感じることもできなくなった世代が 出てきたといえる。現代の危機感や疎外感の反映だろう……

 

 この本は、何度もいいますが、1969年に書かれています。現代詩によることばの実験のような表現が追求された初期の時代です。そこで「荒地」の世代になる黒田三郎は、冷静に詩のありかを考えようとしているようです。

 

【体験と表現】

  ここで黒田三郎は、素人が投稿してくる詩について取り上げています。

 つまり、詩の表現以前に、投稿者が経験している現実の切実さ、苛酷さを感じる……というのです。ただ、体験があるからといって、その気持ちを吐き出す、切実さを訴える、それだけではいけないというのです。不十分なのです。

「詩は、ひとりの体験のわくのなかから抜け出て、他人の体験に訴えるものがあってはじめて詩と言えると思います」と書いています。

 

「もちろん、歌うことによって自分の心をささえ、そこに生きがいを見いだしているひともあるでしょう。他人がどう思おうと、どうでもいいと言うひともあるでしょう。それはそれでいいと思います。だれでもそれだけの根性がなければ、孤独な詩作に励むことはできないに違いありません。しかし、それだけでは不十分だと思います。お互いに響き合い、共鳴するためには、やはり十分お互いの身になって考えることが必要だと思います」

 

 ぼくが、「他人に共感してもらえるような詩をかきたい」という鍵もここにある気がします。いわれるように、他人の立場ではどうか、を考えることは難しいですが。

 詩が……他人と共有し、共感するものだ、ということは、わかりました。

 そして、どう考えれば、詩をかく立場に立てるのかも。

 

 それでも、まだ詩をかくテクニックを求めている自分がいます。これからも探していきます。