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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

杉山平一『現代詩入門』を読む 16

【詩は嘘をつく】


 詩を読むとき、作者の体験と思ってしまうことが多い。読者にそのように思わせるように書かれるからです。でも、詩はもともと現実を誇張したものであり、夢や願望を表現したものです。読者に共感してもらうために嘘を並べることもあります。

 P271で、杉山さんがいわれているように──
「詩からあまり事実を掘り出すことは誤ることが多い。詩は、もともと事実からの異化によって成り立っているからである」

 詩にとって大事なのは、作者の体験とか事実ではなく、虚構によってどれだけ現実を異化できたか(批判的視点を持ち得たか)にあると思えます。


 ここでも杉山さんは多くの詩を紹介されています。

P262
「夢や幻想は、本人のこころの真実であったとしても、事実から離れた大法螺である。ホラ男爵の冒険ではないが、ホラは、せせこましい日常や、退屈な平凡に飽きた心を弾ませてくれる」

     大儀      山之口貘

 躓いたら転んでいたいのである
 する話も咽喉の都合で話してゐたいのである
 また、
 久し振りの友人でも短か振りの友人でも誰とでも
 逢えば直ぐに、

        ──(略)──



   ラッシュ・アワー   北川冬彦

 改札口で
 指が 切符と一緒に切られた




P264
「嘘をつくことによって、日常を離脱して詩になっているのだから、ことごとくの詩が、嘘を描いているといっていい」


P266
「坂本遼の知られた詩に『お鶴の死と俺』がある」

 「おとつっあんが死んでから
 十二年たった
 鶴が十二になったんやもん」
 と云うて慰められておったお鶴が
 死んでしもうた

          ──(略)──

P268
「この哀切の詩は、多くの人のこころをうち、坂本遼の名を高からしめた。坂本遼には、兵庫の方言を生かした農村のすぐれた詩が多い。
 ところが、読者は『お鶴の死と俺』の俺は、作者坂本遼自身のことと思ってしまう。作者は、大学出の大新聞社の社員で、神戸へ行くのに牛を売らねばならぬ小作人の子ではない。その違和感を論じた人があったが、これも、作者即ち『俺』と見ることの誤りである」

「妹との別れの水を氷を割って与えるところは、時期を同じくした宮沢賢治の妹の臨終を描く『永訣の朝』に似ている」


 宮沢賢治「永訣の朝」


P270
高村光太郎の『レモン哀歌』は、これを下敷きにして書かれた、という説もある」


 そんなにもあなたはレモンを待っていた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとった一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

       ──(略)──

P271
「これは、高村光太郎が、ながく精神分裂症で入院していた夫人智恵子の臨終に立合った事実にもとづいた詩で、病院の院長も、このとおりでした、と述べている。ただ、亡くなったのは十月五日の夜で、桜の花は、この季節のものではないから、事実の記録としてつじつまを合わせると、詩の書かれたのは、翌年の春ということになる」




 詩は幻想や願望を描くものなのです。事実と異なるからといって価値が下がるものではない。それで、そういう見方をしないように、杉山さんはこの項を設けたのではないでしょうか。