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 日の記し   ★ヽ(´・ω・`)ノ 。・☆彡 ・☆

底辺で生きてきた67才で、もう老人なのですが、そこから見える風景とか、ふと思ったこと、検索してわかったことをメモして残します。仏教を生きる支えにしているので、もっと自由になれるでしょう。リンクを貼らせていただくサイトの方々に感謝しています。

杉山平一『現代詩入門』を読む 1 の続き(非日常ということ)

「詩は非日常なもの」
と、杉山平一さんがいわれていることはとても重要だと思います。それがほんとうに詩の本質だと思うのです。

 詩は、日常的な感情の定着でもなく、抒情でもない。
 非日常であるからこそ詩の面白さがある。


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 シュールな詩。
 言葉遊びみたいな詩。



 現代詩には、芸術的なテクニックに走りすぎて混乱したイメージの羅列にしか過ぎないものもあります。
 作者のひとりよがりの詩論に基づいた、言葉の用い方もあります。

 それでも、詩の本質が非日常にある━━━そこを目指して書かれているのだ、という指摘は、納得できるものがある。

 だから、難解な詩を書く人は、非日常を引き寄せようとして無理している、ともいえます。


 現代詩の詩集が読まれなくなったのも、知性の遊びみたいになったからかもしれない。ぼくのように無学で、世間の落ちこぼれにとっては、知性的なハードルはとても高い。一度、「現代詩は難解なんだよなあ」という先入観を持ってしまうと、それを読む疲労感みたいなものが前に来て、手に取ろうとしなくなる。


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 詩は非日常である、といったときに━━━
 
 日常性とはなに? ということがある。
 普通の生活とはなに、と問うことになる。


 普通に一般に生活している人にとって、日常の悲しみとか苦痛とか、やるせなさとかが……詩を書く動機になるだろう。
 それを乗り越えるために、気持ちを吐き出させるために、心を落ち着つかせるために……詩が、必要になるだろう。

 そのとき、結果的に非日常のおもしろさに到達することになる。




 そのとき、詩論とか、表現のテクニックは二次的なものに過ぎないだろう。そう思うけれど……



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 そこにどんなに日常的な普通のことが描かれていたとしても、詩として書かれたものは、非日常の光を当てられている。

━━━それが作者に選ばれ描かれることで、

 そこに、読者の視線が注がれる。
 注目される、注視される、という効果が生まれる。

 それが読者にとって「発見」であり「気づき」であれば、詩は非日常である、といえるのでないでしょうか。


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 読者は「なぜ、これを作者は描いたんだろう?」と考えてしまう━━━クイズをを与えられたようなものです。
    それに反論する自由、拒否する自由。
    否定的に捉える自由、もちろん共感する自由もあるわけです。


 非日常のおもしろさが詩の本分とはいえ……ぼくとしては、あまりテクニックに走るのは読む人の共感を得られないのではと考えてしまうのです。
 技巧的な詩を否定はしないけれど……