日の記し ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。☆彡 ・☆

社会の底辺で生きてきて68歳になりました。貧困や社会保障から落ちこぼれる人のために、社会が動いてくれたらいいのですが……いつも、自己中で理不尽な強い者が勝者になるようです。〈自分を救うのは何か〉考えています。ネガティブなものも肯定する視点を持ちたい。いまはブログがあるので寂しくありません。訪問してくださる人に感謝しています。ありがとうございます。コメントをいただいた場合は相手の方のブログのコメント欄にお返事しますね。

『仏教と気づき』

 おはようございます。

 昨日は地震から3日目で一日雨が降っていたので、夜になっても土砂災害の警戒や河川が氾濫しそうだということで避難する人たちが多く出た近畿地方でした。自然には勝てません。災害に備える気持ちを持ち続けることが大切です。 

 

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  この本は武蔵野大学の、仏教学、インド哲学の教授たちの講義を採録したものです。

 

仏教と気づき

仏教と気づき

 

 「はじめに」で、こう書かれています。

「仏教の根幹とは何か?」

 そう問えば、多くの仏教学者や僧侶は、「目覚め」「悟り」「解脱」「涅槃」という答えを挙げることでしょう。

 ところが、一般の人にとっては、それらはあまりにも高い境地のために「自分たちには関係がない」と思ってしまうのではないでしょうか。そこで、それらを「気づき」と表現することにしました。それにより多くの人々に、「自分も日常生活の中で体験できるかもしれない」と感じてもらえるのではないかと思いました。

 そしてそこから、「仏教と気づき」をテーマにしたオムニバス仏教講座が生まれました。(P3)

 

  1章は、古代中国の〈三階教の教説〉を解説して、「壁のない無我なる私」 とは何かを明らかにします。

 2章は、〈縁起〉について。

 3章は、仏教の〈悟り〉についての解説。

 4章は、〈目覚め〉とは〈智慧〉であることについて。

 5章は、アメリカに伝わる『溺れる船乗り』の喩え話から、仏教的な意味を。

 

 目次

1章 等身大の私への気づき      西本照真

2章 〈ご縁〉と気づき        石上和敬

3章 仏教の〈悟り(気づき)〉    佐藤裕之

4章 〈悟り〉の智慧智慧の〈信心〉 小山一行

5章 求道者の気づき         ケネス田中

 

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1章 等身大の私への気づき      西本照真 

「ありのまま」「等身大の自分」であり続けるのは難しい。ともすれば――

  • 自己の矮小化――取るに足りない自分だと感じてしまう。
  • あるいは、自己が肥大化して――背伸びをし、欲にまみれ、他人を利用したり、貶めたりする。

「ありのまま」とは「無我である私」に気づくことです。

「固定的な実体はどこにも存在しない」

 無我なる私は、他の人たちとの関係性や、環境に支えられている。

 

  古代中国に三階教というのがあった。 

三階教 - Wikipedia

 『涅槃経』には「仏性」だけではなく、救われる可能性のない「一闡提」「断善根」も説かれています。ところが、みんな「仏性」の話ばかりに目がいき、「一闡提」「断善根」のような都合の悪い話は、まったく耳に入っていません。誰かほかの、自分とは関係のない人のことだと思っているのです。

「『涅槃経』で説かれている、一闡提(救いようのない最大多悪の存在)こそ、まさにこの私だ、という者がまったくいない」

 信行はそのことを嘆き、怒っているのです。(P22)

  三階教は頭陀乞食を実践とする過激な思想だったようです。

「死人仏法」を説きました。一に、死人は他者を批判しない、二に、人の是非、長短などを聞いてはならない、三に、いかなる時も人の是非、長短などを説いてはならない、四に、他人の是非、長短などを嫌ってはならず、怒ってはならない。ちょうど死人の心と同じ状態であるべきである……

600年以降、5回に渡って国家から弾圧され、最終的にはいつのまにか滅んでいきました。

 浄土宗や、華厳宗天台宗など、中国で盛んになった宗派はすべて日本に伝わっているのですが、三階教だけは伝わっていないのです。(P26)

 

 三階教は人称性をダイレクトに超えていこうという厳しい教義を持っていた。

 これに対して浄土教は「大いなる二人称」という方便で人称性を超えようとしています。すべての人々が一人も漏れることなく、阿弥陀さまに包み込まれています。

阿弥陀さまから見た二人称は「十万衆生」 として、すべての人々が二人称の対象となっているのです。(P39)

 最後に〈まとめ〉があります。ぼくには信心はありませんが、これに納得しました。

自己が大いなる二人称の中に溶け込んでいくことにより、

閉じた一人称から解放されていく

=「ありのまま」の私に気づかされてくる《閉じた一人称への気づき》

=その気づかせる阿弥陀仏の働きに気づかされる《大いなる二人称への気づき》

=信心をいただく

念仏は人称性を超えていくシステムである

私が大いなる二人称によって称えせしめられ、

その声によって私がまた呼ばれている(P41)

 2章 〈ご縁〉と気づき        石上和敬
  • お釈迦さまの教えの根本は「縁起」
  • 仏教では「苦とは思い通りにならないこと」と説明します。……四苦八苦すべてそうです。
  • 苦の原因は……煩悩から起こる、それがお釈迦さまが突きとめたことです。「煩悩」が原因であり、結果として「苦」が現れる。この因果関係が一つ目の縁起です。
  • 八正道を実践することを原因として、結果として煩悩がなくなり、苦しみがなくなる……これを二つ目の縁起と考えることが出来ます。
  • 縁起とは……さまざまな原因や条件によって、すべての事や物が成り立っていること。
  • 初転法輪」では「四諦の教え」が説かれました。また十二支縁起が説かれました。

【大乗仏典などにみられる縁起】

  • 無自性……すべてのものには固定的で不変の実体はない。
  • 「無自性ゆえに空である」と説かれる。
  • 原因や条件によって、その結果が、あり方が変わっていく。よい縁を多く結べば、結果も良くなってくる。

【華厳の縁起説】

  • 因陀羅網のたとえがある。縁起はすべてを覆っている。
3章 仏教の〈悟り(気づき)〉    佐藤裕之

 

という初心者向けの宗教の説明がなあって、お釈迦さまが修行は始めたきっかけが語られます。「四門出遊

仏陀は何を悟ったのか?】

 この言葉が印象深かったので引用します。

 苦しみがあるといっても、仏陀は、「この世の中の一切が苦しみであって楽はない」と考えます。

 私たちは楽もあると考えていますが、その考えは間違いで、楽はなく「苦しみがあること」が真理になります。同じように、「苦しみの原因はない」という考えは間違いで、「苦しみの原因があること」が真理になります。

 そして、「苦しみの原因がなくなることはない」という考えは間違いで、「苦しみの原因がなくなること」が真理になります。さらに、「苦しみの原因をなくす方法がない」という考えは間違いで、「苦しみの原因をなくす方法があること」が真理になります。(P93)

 仏教は厭世的だといわれますが、これを読んで、意外と積極的なのだと感じたのです。非常に現実的な対処法です。

四諦です。

苦しみがある……苦諦

苦しみの原因がある……集諦

苦しみはなくなる……滅諦

苦しみをなくす方法はある……道諦

 

【何から解脱するのか】

  1. 苦しみ
  2. 欲望(煩悩)
  3. 輪廻……当時のインドでは生まれ変わり輪廻することは、苦しみをまた味わうことだとされていたのです。

 解脱は永遠のものと考えられた。解脱には終わりがなく、苦しむことも、欲望(煩悩)を持つことも、輪廻することもない。解脱が永遠であり、〈永遠〉が「終わりがないこと」だとすれば問題はないのですが……

 

 仏教には「常住」という言葉があり、この言葉が永遠を意味すると一般的には理解されます。一般的にはこのように理解されますが、「常住」という漢字をよく見ると、「常に住む」、つまり「常にある」ということになります。「常に」という点が重要で、単に「終わりがないこと」だけを意味するのではなく、「始まりもないこと」も意味します。「始まりも終わりもなく、常にあること」、それが常住になります。

 このような考えの背景にあるのは、「始まりがあるものには、必ず終わりがある」という「無常」の考えです。始まりがあって、終わりがないものはないのです。

……略……

解脱は永遠なものですが、その永遠とは「終わりがない」だけでなく、「始まりもない」ことになります。(P99)

 このように考えがぐちゃぐちゃになってしまうのです。これに続く文章を読んでいても頭が混乱しました。「言葉にこだわり過ぎ!」 

 

 P103にはこれの解答としてこうあります。

「真理を悟る」ということで、「真理」の内容を「法」や「縁起」などであると説明してきましたが、その「真理」の内容は「すでに悟っていた」ということであるかもしれません。

 解脱が苦しみからの解放であるということでいえば、「苦しい、苦しい」とずっと感じていても、「苦しくはなかった」「もともと苦しんではいない」ということがその内容であるかもしれません。「悟り」の内容も同じであると考えられますし、仏陀はそのことを悟り、仏教はそのことを教えようとしているのかもしれません。

 

 4章 〈悟り〉の智慧智慧の〈信心〉 小山一行

 お釈迦さまが王宮の生活を捨て、修行の旅に出て菩提樹の下で得られた「悟り」の智慧は、自己と世界の「真実」に目覚めた「気づき」でした。

 

釈尊は目覚めたお方である」

 それで、仏陀とよびました。〈目覚めた人〉(Buddha)

『ディーガ・ニカーヤ(長部経典)』では釈尊についての呼び名が並んでいます。

「ここに、如来が世間において出現しています。(彼は)阿羅漢であり、正遍知であり、明行足であり、善逝であり、世間解であり、無上士であり、調御丈夫であり、天人師であり、仏であり、世尊であります」

 それぞれの名前の由来と意味がP115~120まで解説されています。

 

「私は、過去の正覚者たちのたどった古道・古径を発見したのである」(相応部経典)

 

「過去の仏陀が目覚めた道を、私も見いだしたのだ。『ここに道がある。あなた方も来てみなさい』と、過去の仏陀たちがいっている。それが仏教の教えだ」としています。(P苦諦124) 

 

「よく見てごらんなさい、この世界というものが、どのようになっているか。それを、私は見いだして、それを説いているにすぎないのです」(P125)

 

 仏陀の悟りというものは、「特別な神秘体験とか、不思議な超能力を得るということではなく、今まで見えていなかった真実が見えたということである」(P129)

 

 この後のページは仏教用語の解説(分別と智慧、三慧)と、親鸞の「信心」ついての記述があります。「〈称える念仏〉から〈聞く念仏〉へ」ということが語られます。

 

 

5章 求道者の気づき         ケネス田中 

〈求道者の気づき〉をよく説明しているのが、アメリカの「溺れる船乗りの説話」です。

 禅には十牛図というのがありますが、それに似たものです。

 ここでは絵とともに解説が書かれているので、〈気づき〉の経過がよくわかります。

  1. 乗船……船に乗るところからこの物語は始まります。
  2. 落船……激しい揺れに海に落ちてしまいます。船は行ってしまい……やがて、島があったのを思い出します。
  3. 求泳(ぐえい)……必死に泳ぐしかありません。疲れて、弱気になってきます。
  4. 放浮(ほうふ)……「力を抜きなさい」という声が聞こえてきました。それで彼は気がつきました。波に体を任せ浮くことで助かると思ったのです。
  5. 歓喜(かんぎ)……なんとかなるかもしれない。気持ちが変わったことで、周囲への感じ方が変わりました。
  6. 楽泳……また泳ぎ始めます。今度は力を抜いているので楽です。疲れたら浮いていようという安心感があります。
  7. 解脱……やがて島にたどり着きます。仲間を助けるために、今度はボートに乗って海へ出ます。

 

 落船とは、四苦八苦に遭遇することです。

 求泳(ぐえい)とは、苦の解消にはげむことです。六波羅蜜が求泳にあたります。

 放浮(ほうふ)は、力を抜いて浮かび転心することです。我にこだわらないこと。

 歓喜は、喜びを体験すること。悟りが保証される、ということ。

 楽泳は、余裕を持って泳ぐ。自分の力で泳いでいるとは思いません。自利利他に気づき、「自分は社会とつながっている」「他の人たちに支えられている」という気持ちになること。

 そうすることで解脱できることになります。

 

            *            *

 

 解脱や悟りを「気づき」と名づける視点が新鮮でした。

 信心するような心には到達できませんが、親鸞浄土真宗関係の本を読んでみたくなりました。やっぱり宗教というのは他力だろうなあ、と考えてしまうからです。自分では自分を救えない、超越的なものにすがるのが宗教というものでしょう。我が強いと、救われない気がするのです。

 自我を捨てることを目指す仏教の救いの形は、西欧に比べると、やはりアジア的なのだと思いました。

 

 

 

  …………      …………      …………      …………

 

    読んでいただいてありがとうございました。 

    誰もが穏やかで、幸せでありますように。